プラスチックで思いをカタチにする会社 株式会社テクノラボ

社会のために働くということ

社会のために働くということ

仕事=「お金を儲けることだ」と言う人もいます。それが間違っているとは思いません。

しかし私個人の考えとしては、仕事=「社会の役に立つこと」ではないかと強く思っています。やはりお金を儲けるのは会社を存続させるための手段であって、会社の目的ではないと思うのです。

例えば個人投資家で億単位のお金を稼いでいる人が居たとして、実際裏では大して良く言われないことも多いように思います。あぶく銭を集めているだけだと見られてしまったり...。

一方でそれほど儲かってなくても、社会的に意義がある仕事をしている人は一目置かれると感じます。多くの人は、相手を社会の役に立っているかどうかで判断していると思います。実は是非や善悪とは別の次元で、本能的に人間の集団はそのように考えているのではないでしょうか。もしこれが人の本質なのだとしたら、当然個人も会社も社会から見れば同じでしょう。

当たり前ですが、社会の役に立たない企業は、決して認められないのです。

ただし社会の「役に立つ」ということは、社会に「おもねる」のとはちょっと違うと考えています。

例えば売り手と買い手は、社会において対等だと思いますが、現代はデフレとモノ余りが絡まって、買い手が著しく強い状況になっています。

強くなった「買い手」は当然その立場を利用して、過剰な要求をすることが増えますが、それは社会的には望ましくありません。もし「買い手」の歪んだ要求に従って、社会におもねってしまったりすると、社会におもねったブローカーが一時的に買い手の機嫌を取って跋扈するかも知れません。しかし最終的に無理な要求が続けば供給者は居なくなってしまって、市場そのものが無くなってしまうのです。結局誰も得をしません。

つまり「買い手」が不当に強くなった時、売り手がそれに「おもねる」ことは社会の「役に立たない」のです。

これはもちろん「売り手」が不当に強った場合も同様で、社会的に良いことはないので、独占禁止法などの多くの法律が整備されてきたのでしょう。

 

さて、だからこそあるべき社会とは売り手と買い手が対等で、お互いが社会の役にたっていることを認め合う(敬意を持つ)構造をもつ社会だと思っています。

残念ながら今の日本(を含むアジア地域)を見ると、大きな歪みがあることを感じます。現在は「買い手」が極端に強く、「売り手」が極端に弱い。望ましくないですね。

テクノラボは社会貢献をする会社を目指しています。社会の役に立つサービスを日々生み出しているという自負があります。だからこそ、テクノラボはこれからも存続してゆかなくてはいけないと思っていて、買い手と対等な関係を構築することを心がけています。

「買い手」という立場=「偉い」と勘違いする相手から過当な要求された時、そうした相手との付き合いを断っても事業が継続できるよう、強い魅力を作って「買い手」と対等に交渉ができる「売り手」になろうと努力しています。

私たちは買い手にベストな提案をする意思と能力があります。でもその価値が良く分からなくて、それを上回る過当な要求をしてしまう買い手も多く居るのが事実です。その要求に屈っすることなく、正しく我々の提供する付加価値を理解して貰えるような企業になるよう、努力し続けたいと感じてます。

加えて言えば、私たちは「売り手」ですが、その会社に働く社員は同時に社会の「買い手」でもある訳で、この社員を大事に扱うことが社会のためでもあると思っています。

皆さんの会社は、社会とどう接していますか?

因みに「お金」というものがかくも大きなチカラを持つようになったのは、アメリカでは第二次大戦が終わって純粋な資本主義経済に集中できるようになった1950年頃からだと私は思います。日本では高度成長が始まった1970年代以降、そして成長著しい中国では1990年代からに過ぎません。お金がこれほどまでに大事にされる時代というのは、長い人類の歴史から見れば、一時的な揺らぎに過ぎないと思っています。

歴史的に見て「お金」至上主義はやはり一時的な流行で、流行がこのまま続くかと言えば、怪しい部分の方が多いと感じています。

原点に立ち返れば、あるいは自分の直感に従えば、仕事というものはお金儲けが目的ではなく、社会貢献が目的なのだと思います。

皆さんはどう考えていらっしゃいますか?

林 光邦